
【映画レビュー】原作ファンが降伏した日。映画『探偵はBARにいる』が描いた、大泉洋という「最高に格好悪い、最高の男」
こんにちは。普段は高校で坊主頭の高校生相手に古典や現代文を教えている、しがない国語教師です。
50歳という節目を過ぎると、若い頃に貪るように読んだ小説を読み返す機会が増えます。私にとってその筆頭が、東直己先生の「ススキノ探偵シリーズ」(『バーにかかってきた電話』など)でした。あのハードボイルド特有の、冷徹な街の底に流れるかすかな人間味。あれをどう映像化するのか――。
2011年、映画化の報を聞いた時の私の正直な感想は「大泉洋? いや、イメージが違いすぎるだろう」でした。
原作の「俺」は、もっと無骨で、もっと寡黙で、煤けた街の匂いがする男のはず。テレビのバラエティ番組で「にょういずみさん」などと弄られ、ぼやき倒しているあの男に、ススキノの闇を背負えるわけがない。そう思っていたのです。
しかし、三部作をすべて観終えた今、私は白旗を掲げるしかありません。今回は、原作至上主義だった一人の国語教師が、なぜここまでこの映画シリーズ、そして「大泉洋」という役者に魅了されてしまったのか、その理由を綴らせていただきます。
理由1:原作の「行間」を埋めた、大泉洋の圧倒的な「生活臭」
原作小説における「俺」は、名前すら明かされない、どこかストイックなハードボイルドの体現者です。しかし、映画のスクリーンに現れた大泉洋演じる「探偵」は、実によく喋り、よく食べ、そして本当によく殴られます。
国語の授業ではよく「登場人物の行動から心情を読み解きなさい」と教えますが、この映画の大泉洋は、まさに「行動と佇まい」だけで原作の行間を表現していました。
雪にまみれて携帯電話に齧りつく必死さ
お気に入りの喫茶店でナポリタンを頬張る姿
美女に弱く、すぐ鼻の下を伸ばす俗っぽさ
これらは一見、従来のハードボイルドから遠ざかる要素に見えます。しかし、この「泥臭い生活感」こそが、かえって彼が「本当にススキノの雪の下で生きている人間だ」という強い実感を観客に与えるのです。格好いいだけの探偵なら、ハリウッド映画に任せておけばいい。私たちが観たかったのは、日本の、それも北海道の寒空の下で、必死に生きる等身大の男のドラマだったのだと気付かされました。

理由2:言葉に頼らない、高田(松田龍平)との「不文律のバディ関係」
このシリーズを語る上で、相棒・高田を演じた松田龍平の存在を外すことはできません。
大泉洋が「動」であり「饒舌」であるならば、松田龍平は徹底して「静」であり「寡黙」。このコントラストが、文学的に見ても実に美しい対比(レトリック)になっています。
「高田、お前さぁ……」
「……(無言で車を走らせる)」
劇中、二人は決して「俺たち、親友だよな」なんて野暮な言葉は口にしません。探偵がどれだけピンチに陥っても、高田はいつもどこか眠たげで、マイペースに遅れてやってくる。しかし、ここぞという瞬間には、命懸けで探偵の盾になる。
高校の教室で「真の信頼関係とは何か」を教えるのは骨が折れますが、この二人の距離感を見せれば一発で伝わるのではないか、とさえ思います。言葉に頼らない関係性だからこそ、たまに探偵が見せる高田への信頼、そして高田が見せる探偵への(少し呆れたような)情愛が、観客の胸に深く刺さるのです。

理由3:昭和の「滅びの美学」を継承した、ほろ苦い結末
私がこの『探偵はBARにいる』シリーズを、単なるエンタメ作品ではなく「優れたハードボイルド映画」として愛してやまない最大の理由は、その結末の引き際にあります。
第1作から第3作(2017年)に至るまで、事件の裏には必ず、哀しい過去を背負ったマドンナ(小雪、尾野真千子、北川景子)の存在があります。探偵は彼女たちのためにボロボロになりながら事件を解決しますが、最後には必ず、彼女たちは探偵の前から去っていく。あるいは、探偵の手の届かないところへ行ってしまう。
事件が解決した後の、ススキノの夜。探偵が一人、いつものバー「ケラーオオハタ」でグラスを傾けるシーンで映画は幕を閉じます。
第1作:ほろ苦い別れの後の、静かな余韻
第2作:失われた友への、哀悼の1杯
第3作:時代の変わり目を感じさせる、少し寂しげな背中
どれだけ泥臭く笑わせておいても、最後は必ず「孤独」というハードボイルドの本質に立ち返る。この美学を、大泉洋という役者はあの特有の「哀愁を帯びた目」で見事に表現していました。普段バラエティで見せるあの軽妙な笑顔が、映画のラストではそのまま「切なさを覆い隠すためのマスク」のように見えてくるから不思議です。彼は、実に罪な役者だと思います。

【まとめ】大泉洋という「稀代の表現者」に、最大級の賛辞を
原作が好きであればあるほど、実写化には懐疑的になるのがファンの性(さが)というものです。しかし、大泉洋は原作をなぞるのではなく、「大泉洋にしかできない、しかし間違いなく東直己の血が通った探偵」をスクリーンに生み出してくれました。
北海道という土地が持つ特有の土着感、寒さ、そしてそこに生きる人々の温かさ。それらをすべて背負って立つことができる役者は、やはり大泉洋をおいて他にいなかったのだと、今では確信しています。
「最近の映画は、刺激ばかり強くて余韻が足りない」
そんな風に感じている同世代の諸兄にこそ、ぜひ今一度、ススキノの雪景色と、あの不器用な男たちの物語に浸っていただきたい。Barの扉を開けるような気持ちで、まずは第1作の再生ボタンを押してみてはいかがでしょうか。


