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20年間開けなかった「娘のランドセル」に入っていたものとは…「佐世保小6同級生殺害」 事件を追い続けた記者が明かす「被害女児」父親の今(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

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2004年6月1日、長崎県佐世保市で世を震撼させる事件が起きた。市内の小学校で6年生の少女が、同級生の女児を殺害。背後から首を切るという凄惨な犯行は、11歳という加害者の年齢も相まって、連日大きく報道された。毎日新聞記者の川名壮志氏は当時、佐世保市局に在籍し、この事件を取材。その後も20年以上、同事件をはじめとする少年犯罪を追い続けている。その取材成果は、近著『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか』(新潮新書)に詳しい。その川名氏が事件から20年余りが過ぎた今、遺族と加害少女の知られざる“その後”について記した。

【写真】凄惨な事件の現場となった佐世保市内の小学校

【川名壮志/毎日新聞記者】

【前後編の前編】

 ***

11歳の少女が同級生を殺害した事件のそれから―
 古い過去の時代を閉じこめて、遠い未来に届けるタイムカプセル。1970年の大阪万博を機に、日本でも大流行したらしい。過去からワープしてきたかのような「思い出」のカケラに、人は忘れかけていた記憶をよみがえらせる。そして、胸が締めつけられるのだろう。
 佐世保小6同級生殺害事件の遺族、御手洗恭二さんにとって、そのタイムカプセルは、娘の赤いランドセルだった。

「娘さんが、けがをしました」
 2004年6月1日。御手洗さんに一本の電話が入った。長女の怜美(さとみ)ちゃんが通う小学校からだった。
 詳細を知らされないままタクシーを拾い、学校に駆けつけた御手洗さん。その目に飛びこんだのは、血だまりに倒れている娘の姿だった。
 目を凝らすと、倒れている娘の首には信じられないぐらい深く、ぱっくりと開いた傷。
「その瞬間、あぁ、これは事故ではないんだな、と思った」
 御手洗さんは、後にそう振り返る。
 長崎県佐世保市でおきた小6同級生殺害事件。それは衝撃的な事件だった。

あの日、昼日中の教室で
 小学6年生の怜美ちゃんは、同級生の11歳の少女にカッターナイフで首を切られて、命を落とした。
 それも、昼日中の学校の教室で。
 加害者の少女は、担任の目を盗んで、給食前に怜美ちゃんを空き教室に呼び出した。そして怜美ちゃんを椅子に座らせ、後ろから切りつけていた。

「何があったの?」
 駆けつけた消防隊員が、少女に問うと
「私がやりました」
 とあっさりと認めたという。
 少女は逃げることもなく警察に補導された。逮捕ではない。「補導」だ。
 11歳の彼女は、罪に問えない年齢だった(刑罰の対象になるのは14歳以上)。警察は少女を補導したあと、児童相談所に通告している。

 娘の死と同時に御手洗さんを苦しめたのは、この少女を知っていたことだった。加害少女は怜美ちゃんの同級生であり、友だちでもあった。自宅にも何度か遊びに来たことがあったのだ。

「なぜあの子が、怜美を……?」
 その疑問が、長く御手洗さんを痛めつけてきた。

 さらに現場で倒れている娘を前にして、今も後悔していることがあるという。
「あのときどうして怜美を抱きあげてやれなかったのか。それをずっと後悔している」

被害者の父は、新聞社の支局長
 30代以上であれば、覚えている方も多いと思う。御手洗さんは事件当時、毎日新聞佐世保支局の支局長。この事件の被害者は、新聞記者の娘でもあったのだ。前代未聞の話である。
 ただ、全国紙といっても、県庁所在地でもない佐世保のような衛星支局の人員は少ない。支局長とデスクを兼務していた御手洗さんを含めても、記者の人数は3人。
 そして、私はその3人のうちの1人だった。

 事件の一報を、私は学校にいた御手洗さん本人から知らされた。
「怜美が死んだ」
 支局で受けたその電話の声は、まるで他人事のように乾いていた。
 慟哭。怒り。悲嘆。ふだん新聞記事で使う安易な表現を、いっさい寄せつけない抑揚のない声色だった。
 それは4年目の新米記者だった私にとって、とうてい理解を超えた内容でもあった。
 巻きのゆるんだ固定電話のコードがだらりとぶらさがって、通話口から妙にノイズが聞こえたのを覚えている。

 記者3人の支局は、3階建て。とはいえ仰々しいものではなく、一階部分はくりぬかれて記者用の駐車スペース。2階が支局として記者の人数分の机が並び、3階は支局長住宅だった。つまり、御手洗さんの家族が住んでいたのだ。

小さくアットホームな支局だから、私は怜美ちゃんとも顔見知りだった。御手洗さんは事件の3年前に奥さんを癌で亡くしていて、仕事と子育てを男手一つ、今でいうワンオペでこなしていた。
 独身だった私も、3階に上がって、御手洗さんの手料理をごちそうになった。怜美ちゃんたち家族と夕食を共にすることもあった。

 だから、事件は私にとっても衝撃だった。
 身内同然に接してくれた上司の娘が殺され、それを記者として取材する――。
 振りかえれば、心を引き裂かれるような体験をした。

 事件の発生から、少女の補導、そして家裁に送致されて少年審判で彼女の処分が決まるまで、わずか半年余り。そのあいだ、目まぐるしい展開を追いつづけた。
 なぜ、この事件を無我夢中で取材できたのか。
「記者ならば、書け」
 御手洗さん本人に、そういわれたのも大きいと思う。

 以来、私は少年事件を追いつづけて20年が過ぎる。
 そのあいだ、御手洗さんはずっと新聞記者として、もっとも信頼できる先輩だった。
 そして、加害者への憎しみの言葉ひとつ発しない彼は、私にとって尊敬できる人物でもあった。

20年を経て開けられた赤いランドセル
 人の世の主役は人間ではなく、歳月です――。
 そう喝破したのは、俳優の故・森繁久彌氏だそうだ。
 昭和の名優の達観には遠くおよばないが、いつのまにか私も当時の御手洗さんの年齢を超え、元に戻らない年月の重みを、いやが応でも感じている。

 御手洗さんは2018年に毎日新聞を定年退職。その後、福岡市で独り暮らしをしている。
 今、66歳。
 御手洗さんは年を重ね、ゆっくりと老いに向かっているが、記憶のなかの怜美ちゃんはあの時のまま、12歳。時が止まっている。
 一方で、怜美ちゃんの同級生たちは成長し、大人になった。結婚し、子供をもうけた人も多い。すでに小学生の子を持つ元同級生さえいる。

 ここ最近になって、御手洗さんがはじめたことがある。怜美ちゃんの遺品の整理だ。
「開けたら、思い出から抜け出せなくなる。怖かった」
 そういって長く仏壇の脇に置きっぱなしとなっていた、「開かずのランドセル」も、そのひとつ。事件の後、教室に残されていた怜美ちゃんの赤いランドセルだ。

 算数ドリル。漢字練習帳。社会科のノート。国語の音読カード。時間割表。満開の桜が描かれた絵日記。授業中に友達と内緒で交換していた手紙――。

 時計が止まったままよみがえる、怜美ちゃんの息遣い。
 それは御手洗さんにとって、まさにタイムカプセルだった。

20年後に知った娘の思い
 ランドセルのなかには、御手洗さんの知らない怜美ちゃんの思いも潜んでいた。
 前ポケットに、一枚の写真が収められていたのだ。
 それは御手洗さんと、癌で亡くなった奥さんの若かりし頃のツーショット写真だった。怜美ちゃんは、両親の写真を肌身離さず持っていた。
 御手洗さんは思わぬ形で娘の追慕の念を知ることになったわけだ。

 怜美ちゃんを今によみがえらせたものが、もうひとつある。
 撮りためていたホームビデオだ。子煩悩だった御手洗さんは、ことあるごとに家族団らんの風景を映像に収めていた。だが長く、その再生ボタンが押せなかったのだ。
 昨年、ようやく思い立ってカメラのキタムラでDVDに焼き付けた。
 その数、テープ23本分。20年を経た磁気テープは劣化が進んでいて、危うく消滅するところだったという。

 先日、久しぶりに上京した御手洗さんと都内で会った。居酒屋で酒を飲みながら、スマートフォンに落とされた映像を見せてもらった。
 誕生会でケーキのろうそくを消す怜美ちゃん。
 運動会でダンスをする怜美ちゃん。
 公園でお兄ちゃんと遊ぶ怜美ちゃん。
 スマホのなかの怜美ちゃんは、私の記憶より、ずっとあどけなかった。

「ああ、怜美はこんな声をしてたっけなって思ったよ」
 酒を飲みながら、御手洗さんは笑った。

 2025年6月1日。
 この日、佐世保事件から21年を迎えた。

【後編】では、加害少女と家族、そして被害女児の兄、それぞれの“その後”について詳述している。

川名壮志(かわな・そうじ)
1975(昭和50)年、長野県生れ。2001(平成13)年毎日新聞社に入社。初任地の長崎県佐世保支局で小六女児同級生殺害事件に遭遇する。後年事件の取材を重ね『謝るなら、いつでもおいで』『僕とぼく』を記す。他の著書に『密着 最高裁のしごと』などがある。最新刊に『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか』(新潮新書)。

デイリー新潮編集部

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