ささやき(informations)

眠狂四郎はコロボックルの夢を見るか

稀代の小説家、佐藤さとると柴田錬三郎

「小説家も濡れ場が上手く書けるようになれば一流だよ」

とは、かの池波正太郎の言である。

その伝でいけば柴田錬三郎は間違いなく一流の小説家であろう(生没年から言えば柴田錬三郎の方が先輩にあたるのでこの言い方はちょっとなんなんだけど)。

現代の読者の目をもってみれば、その描かれ方がいささか男性上位に過ぎるとの指摘を免れないが、それでも柴田錬三郎の小説が当時の読者の(女性読者も含めて)熱烈な支持を受けていたことは間違いない。

さて、柴田錬三郎の言によれば、小説とは虚構であるが、それを虚構と感じさせず、いかにうまく読者を騙し楽しませるかが肝であるということになる。

私はその言葉を読んだときに、はて同じようなことを言っていた作家がいるわい、と思ったのであった。

その作家とは誰あろう、日本のファンタジー小説の始祖であり、私が神とも崇め奉る偉大なる小説家、佐藤さとるその人である。

かいつまんで言えば、虚構にもリアリズムが必要なのだ、というのが両氏の趣旨だ。

そこで私がふと思い付いたのは、柴田錬三郎こそ、ファンタジー小説の作者として大いなる資質を持った作家だったのではないか、ということだ。

佐藤さとるにも優れた非ファンタジーの作品がいくつもあるし、柴田錬三郎の伝奇小説の中にも明らかにファンタジーと呼んで差し支えない作品が数編、存在する(例えば「月影庵十一代」などは作者の紀行文のような体裁をとりながら始まり、中盤から夢を依り代に時代を越えた精神の交流を描いている。これが単なる夢オチでないのは、別々の人物が同じ場所で同じ夢を見るという工夫がなされているからだ。)。さらには円月殺法をはじめとする秘剣や忍術の類いも大まかにはファンタジーと言えなくもあるまいとも思う。

虚構を楽しみ、物語をリアリズムの手法でもって、緻密にエピソードを積み上げて行くその小説の作法は両人に相通ずるものがある。

いかにうまく騙すか、嘘をつくかとは柴田錬三郎の言葉だが、佐藤さとるもまたファンタジーを支えるのは細部の描写に宿るリアリズムであるとその著書のなかで述べている。

佐藤さとるが、もし時代小説を書いたならば一風変わった彼にしか書けないユニークな時代小説の書き手として名を残したであろうし、反対に柴田錬三郎がもしもファンタジー小説を書いたならば、間違いなく面白い(ダークな意味で)ファンタジー小説を書いたに違いないのだ。

そして、もし柴田錬三郎が意識してファンタジーを書いていたら、佐藤さとるよりも30年早く、日本のファンタジー小説の幕開けは成されていたに違いないのだ。

-ささやき(informations)
-, , ,